中南米の旅 中米編   :1980.9.16〜1981.3.16の記録   南米編 旅の情報

 旅行記、ただいま南米編執筆中です。世界遺産のマチュピチュまでたどり着いています。

あこがれ
 私が中南米、中でもアンデスに興味を抱いたのは、もう随分昔の学生時代でした。そのころは、山登りのクラブに籍を置いてもっぱら北アルプスや南アルプスなどを精力的に登っていました。自分の歩いたコースを地図上に記し、その赤い線が日本国中に広がっていくのを楽しみにしていたのです。ですから、その延長線上にアンデスやヒマラヤが、あることにはあったのですが、それはただの憧れで、当座の目標は身近な日本の山だったわけです。
 そんなある日、下宿の隣の部屋から「変な」笛のメロディーが流れてきました。どことなくコミカルで、踊っているような。そしてその笛が、実はアンデスに伝わるケーナであると知ったときから、アンデスがどこかはっきりとした輪郭を持って心の片隅に居座り始めたのです。

きっかけ
 そうはいっても、アンデスはおいそれと行けるような所ではありません。会社に勤めながら、悶々とした日々が続きました。山岳会でトレーニングを続け、いつしか夢はヒマラヤに変わりつつあった頃、南米のグループのコンサートを聴きに行きました。2時間あまりのコンサートが終わったとき、心は一気に南米に引き戻されていました。そして、コンサートから3ヶ月後、会社を辞めて南アメリカへ旅立ちました。

アメリカ合衆国(9/16〜19)
アメリカ・ビバりーヒルズの夜景
ビバリー・ヒルトンより
リトルトーキョーのまさごホテル
ヒルトンホテルとは雲泥の差
 中学校以来8年ばかり学んできた英語、これが全くという程でもないまでも、ほとんど通じないのです。いやこちらの言いたいことは一応言えるんだけど、相手が何を言っているか全く分からないと言うのが本当のところ。だから、入管では一応こちらの言い分を言ったあと、何か質問されたのですが適当に答えていたらうまくいきました。空港の外でバスを待っている時ビジネスマン風の男が話しかけてきました。私のスタイルを見て興味を持ったのかもしれません。なにしろ登山靴にピッケル、大きなフレーム付きザックですから。最初、「どこへ行く」「南アメリカへ行きたい」「アメリカからメキシコへ行き、南米へ飛ぶ」などと話ができていましたが、私の語学力では込み入った話ができず、そのうち話題もつきてしまいました。そのビジネスマン風の男は、あきれたような表情で去っていってしまいました。もう少し言葉ができたらなあとちょっと残念でしたが、仕方がない。
 その後ロサンゼルスのダウンタウン(リトルトーキョー)に、南アメリカの情報を手に入れるべく3日ばかり滞在しました。その間、バスの中でフィリピン系アメリカ人と話しましたが、その会話のなんとよく分かることか。つまり、英語をあまり流ちょうに話さない者同士ならある程度ヒアリングもできるということだったのです。
 ロスではあちこち歩き回ってウインドウショッピングをしようと思っていたのですが、ある事情でそうもいかなくなりました。その事情とは下痢です。ロスは、9月といえど華氏90度を超えて100度近い(華氏100度は摂氏38度)。おまけに空気が乾燥していました。そこでスーパーでリンゴジュースを買って、1リットル全部飲んでしまったりしていると少しおなかの調子が悪くなってしまったのです。確実に所在が分かっているトイレから、いつ「もよおし」ても間に合う距離しか離れられず、まるでリトル東京の安ホテルのトイレから見えない糸で縛られているようでした。

メキシコ合衆国入国(エスタードスウニードス=ユーナイティッドステイツ)(9/19〜22)
ティファナからメキシコシティへ向かう
48時間かかるのだ
北部砂漠地帯
こんな所にも家、人が住んでいる

岩山が見えはじめた
これがなかなか近づかない
ダウンタウンを発車したグレイハウンドのバスは、最初は高速道路、次第に郊外の瀟洒な家の建ち並ぶ住宅街を抜け、メキシコ国境を通過。ティファナの町へ着きました。ここで風景が一変。それまでのこぎれいな建物から、屋台のひしめくごみごみした町並みに変わったのです。なるほど、これならメキシコ人があのリオグランデ川を泳いで渡ってアメリカに入国したがるのも無理もないと実感しました。
 さて、国境を越えたとたんに風景も一変したのですが、言葉もきっちり英語からスペイン語に変わりました。この旅に出る前、ラジオスペイン語講座で半年ばかり勉強をしたつもりだったのですが、初めて聞く生のスペイン語は、やたら「パピパピ」言っている様に聞こえるだけで、全く何を言っているか分からない。テキストを広げて発音を聞くとまだ少し分かるのですが、すぐに消えてしまう音の洪水が相手では、「あれ?どうだったかな」などと考えている間に二言三言聞き逃してちんぷんかんぷんになってしまいます。そこで一計を案じ、誰かに教えてもらうことにしました。土産物屋ならアメリカ人相手に話しているだろうから、安い買い物をして店のおっちゃんに教えてもらうことにしました。
 「Do you speek English?」 つい先まで、アメリカ人に「I dont speek English.」と言っていたのにメキシコ人相手なら、「俺は英語はしゃべれるけど、スペイン語はわからへんねん」とまあ自分の変身ぶりに苦笑です。
 簡単な英語で会話しながら、スペイン語の単語を教えてもらいましたが、このあと1週間も旅を続けると、もう「旅のベテラン」になった気分で言葉も何となく分かるようになっていたから不思議です。
 ティファナからメキシコシティーまで、グレイハウンドの払い下げかと思うほどそっくりな「トレス エストレージャス デ オロ」という名のバスに乗りました。シティーまでなんと48時間、約50ドル。2泊3日のバスの旅。いきなりのハードスケジュールの洗礼です。
 私は最初、なぜそう思ったのかは分からないのですが、バスは夜は止まってホテルで寝て、また翌朝出発して、とかなりのんびりとした考えにとらわれていました。ところが夜になってもバスは走り続け、予想に反して止まりません。3,4時間ごとに大きな町のバスターミナルで休憩するのみです。何分停車するかは運転手の気分次第。停車すると後ろの客に向かって何事か叫んでいます。何度目かの停車でやっと、「ペインテミヌートス」が「20分」停車と言っているのだと分かりました。それが分かるまでは、バスが勝手に出発してはと運転手の側をつかず離れずうろついていました。しかし全く言葉が分からないことには変わりなく、口に入れられる物と言えば飲み物と果物だけ、トイレも行けない状態でした。
 メキシコ北部は砂漠地帯。前方に格好の良い岩山が見えました。けれどいくら走ってもいっこうに近づかない。延々一時間も走ってやっと後方に走り去りました。空気が乾燥しているため日本のように遠くの物がかすむということがなく、近くに見えてしまい距離感が違っているせいです。バスの中の2日目の夕方、空の半分近くを占める夕焼けに感動。これも空気が乾燥しているせいかもしれません。立ち寄ったターミナルで、子供たちに囲まれました。しきりに「コモセジャマ」とたずねてくるのですが、何のことか分かりません。バスに戻って辞書を調べると名前を聞いていたことが分かりました。名前というと「ノンブレ」としか覚えていなかったので、名前を教えてやれなかったことが残念でした。 
 バスはパンアメリカンハイウェイを突っ走って3,4時間ごとに休憩のため町のターミナルに入ります。そして、その都度がたがたと揺れるので、うとうとと眠っているときは、これで起こされてしまいます。3日目の朝になると、もう寝ているのか起きているのか分からない。夢の中でなぜ揺れるか考えていました。どうもハイウェイから猛スピードのまま市街地へ入らないように、わざと道をでこぼこにしているのではないか、などと考えたのですが定かではありません。とにかく長い長い48時間が終わりメキシコシティに到着しました。
メキシコシティ中心部
レフォルマ通りのモニュメント
メキシコシティ 
ホテルの窓から見た古い街並
メキシコシティのメルカード
雑多な店が並ぶ

 着いたところはノルテターミナル。「ノルテ」だから「北」と言うことだ。タクシーに乗ろうかとも思ったのですが、南へ行けば中心街へ着くと思いコンパスを見て歩くことにしました。ところが後で知ったのですが、人口1700万もの大都会。行けども行けどもビルの谷間ばかり。おまけに荷物は、山道具やテープレコーダー、フィルム50本など30キログラム。とてもじゃないけど歩けません。広場に子供たちが居たので日本大使館はどこかと子供たちに尋ねると、しきりに「メトロ、メトロ」と言う。「メトロ?」さて何のことか。とにかく連れて行ってもらうと、なんだ地下鉄だ。料金が1ペソと安いので良かったと思ったら、大きな荷物を持っていると乗れないと言うことでした。また戻って仕方なくバスに乗りました。子供たちに別れを告げて大使館前につきました。ここで一人の日本人旅行者、平野君と遭遇。以後何日間か一緒に旅を続けることになりました。その方が部屋代などが安くつくのです。

遺跡巡り(9/23〜27)
メキシコ・テオティワカンの遺跡
月のピラミッド頂上より
テオティワカン 太陽のピラミッド
底面積はエジプトのより大きい

ユカタン半島のマヤ遺跡
ウシュマル・魔法使いのピラミッド

いよいよメキシコ観光。手始めはテオティワカンのピラミッドです。平野君の持っていた「地球の歩き方」を見て、最初メトロに乗る。メキシコは識字率が低いためか駅名の横にその駅固有のマークが付いています。私はスペイン語を、かろうじて読めても意味が分からないから、このマークが役に立ちました。「○○へ行くには大砲マークの駅で降りて・・・」とか、「あの単語の意味は団子かなあ」など。次にバスに乗るため、学生らしき若い女性をつかまえて英語で尋ねました。youを「ジュー」と発音したりするがどうにか通じてバスに乗れました。メキシコ以南では英語はほとんど通じないのですが、学生だと勉強している可能性が高いわけです。
 さて、今度は降りるところが分からない。もうそろそろだと思う頃、「ドンデ エスタ テオティワカン(テオティワカンはどこですか)」と尋ねると「アキ アキ」と言う。急いで辞書を調べると「アキ=ここ」と書いてある。「あかん、ここや。早よおりよ」どたばたと降りると、心なしか後ろで笑い声がしていたような気がしました。降りてしばらく歩くと、あの写真で見ていた太陽のピラミッドが現れました。以前大相撲の一行が来て、千代の富士など元気な関取だけが登ったというピラミッドです。早速登ってみました。高さ64メートル。しかし海抜2300メートルの所にあるからちょっとしんどい。てっぺんから遺跡が見渡せます。はるか昔に思いをはせて、失われた時の旅に浸った気分でした。
 プラサと呼ばれる広場を歩いていると物売りがしつこく寄ってきます。もう何人も日本人がかもになったのか、「オイ、チョトマテ」「ノータカイ、ノータカイ」など、怪しげな日本語を操る。我々日本人は、海外慣れしていない者にとって日本語で迫られると無視をすることができず、「えっ」とか「たかくない?」などと言って相手に付け入る隙を与えてしまうのです。結局、私も彼らがしきりに言うので、腕時計と訳の分からないブレスレットとを交換させられてしまった。こちらは「あの腕時計は安物だからいいや。」と思っていても、我々の想像以上にブレスレットは安いのだろう。・・・と後で気が付く。全く,失われた時の旅も高く付くのです。 
 ところでヨーロッパ人はどうしているかと見ていると、物売りが近寄ってきても完全無視、振り向きもせず、答えもせずに通り過ぎる。ちょっと冷たいほど徹底している。あれ位しないと旅は続けられません。ええ勉強になりますわ。
 旅の計画では、メキシコシティから安い飛行機でペルーに飛ぶ予定でした。でも平野君と一緒の旅も結構楽しく、急ぐこともないので、一緒にユカタン半島の遺跡巡りをすることにしました。白い都と呼ばれるメリダまでADOのバスで24時間。すでに48時間のバスを経験している身には短く感じます。景色がよく見えるようにと一番前の座席を指定しました。実はポポカテペトル山やオリサバ山を見てみたいという思いもありました。
 シティからはメキシコ湾岸のベラクルスまで延々下りが続きます。バスはビュンビュン飛ばしました。あいにく空はスカッとせず山は見えませんが。それよりも対向車線にぐーんとはみ出して猛スピードで突っ走るのを何とかしてくれと必死に前方を見ていました。実は運転手は、横で日本人が怖がっているのを面白がっていたりするのです。しかし更にびっくりしたことがありました。夜になってユカタン半島の平野部、ほとんど直線の道を走っているとき、対向車(長距離のバスやトラック)がくると、何を思ったのか運転手はヘッドライトを消し、ダッシュボードにセットしてある照明をつけました。その照明は我らが運転手の顔を誇らしげに照らしたのです。つまり、対向車からは闇の中に運転手の顔が浮かび上がるのです。そして、おもむろに手を振っていました。通り過ぎると何事もなかったようにヘッドライトをつけ楽しそうに走っています。夜の間何度となくそのことを繰り返すため、おちおち寝てられない程で、つくづく前の席にしたことを後悔しました。
 こんな運転手ですが、メキシコではある程度ステイタスが上の方なのではないか,ドライブインでの態度を見ていると彼らが自信たっぷりに見えて頼もしく思いました。
 夜が明けてもまだジャングルを突っ切る一本道を走っています。道の側に成長した木々に追い越された電柱がうち捨てられています。時は9月の終わり。ちょうどたくさんのツバメが飛び交っていました。すでに寒くなったアメリカ合衆国から渡ってきたばかりなのかどうかは分かりませんが乱舞していました。ところがこのツバメが、窓ガラスに「バシッ」と当たって地面に落ちたのです。「あっかわいそうに」と思う間にまた「バシッ」。我らが運転手は全く意に介していないよう。なんとかならへん?と思う間にも「バシッ」。メキシコではツバメの10羽や20羽はどうということはないのかと思い始めた矢先、バスがちょっとスピードを落とし始めました。さすがの運転手もやはり人の子、少しは優しい心を持っているんだと知って安心しました。
 メリダではマヤの遺跡巡り。何カ所かの遺跡をバスでめぐるツアーがあったので平野君と二人で参加。よく分からないような小さな遺跡を何カ所か巡った後、ウシュマルに到着。高さ34メートルの魔法使いのピラミッドが有名で、さっそく頂上までアタック。階段はかなり急で鎖を持っていないと危ない。難なく制覇して記念撮影。ところがここでもちょっとしたことがありました。これまでやたら水分を補給しすぎたのか、ちょっと「もよおし」てしまったのです。もちろん大きい方でなので、一応人が見ていないところへと、適当な場所を求めて移動して何とか用を足しました。元の場所へ戻りながら何気なく振り返ると、なんとそこは発掘中のピラミッドの上でした。

海でリゾート(9/28〜10/2)
イスラ・ムヘーレス(女の島)
バラクーダをさばく
イスラ・ムヘーレス 
カリブ海を望む
 
翌日はカリブ海の島イスラ・ムヘーレス(女の島)までバスでの移動。ほんの8時間という近さ(?)です。途中、チチェン・イッツァーというこれまた有名な遺跡があるのですが、連日の遺跡巡りでいささか食傷気味のため、バスの窓からジャングルの上に飛び出たピラミッドの上部を見るにとどめました。日本では、マヤやインカの遺跡の本を探し回ってでも読んでいたのですが、所詮素人学者、メッキがはがれて海へ吸い寄せられてしまいました。
 島へは、小さなエンジン付きボートで渡ります。水は底まで透き通って、コバルトブルーとエメラルドグリーンの2色が混在します。後で潜って知ったのですが、海底が砂の場合はエメラルドグリーン、岩場の場合がコバルトブルーに見えるようです。しかし、どうでもいいけどきれいだなあと思います。
 何日か滞在して海水浴をしましたが、強烈な太陽で見る間に肌は褐色に、太陽が肌を焼くというのを実感しました。特に肩がじりじりと痛い。そしてここでもちょっとした事件です。子供がボール遊びをしていたので、借りて壁に向かって投げました。するとコントロールが悪く屋根に乗ってしまいました。それで、取ろうと思って壁に手をかけ上ろうとしたとき足が滑って片手でぶら下がり、その時左肩を脱臼してしまったのです。私は何度か脱臼をしたことがあって、岩登りの練習でスリップして肩をはずしたのが最初。スキーで転んではずし、バイクで転倒してはずし・・・と癖になっていました。「あっ、しまった」と思ったのですが仕方がない。メキシコまで来て病院かと思ったのですが、柔道接骨院で入れてもらったのを思い出し、平野君に要領を教え腕をねじってもらうと、「ゴキッ」というにぶい音とともに入りました。ほっと一安心です。でもしばらくは腕を動かせないので、明日も泳げるか心配でした。
 翌日、平野君とボートのツアーを予約していたので、心配しつつ参加しました。そして海で浮かんでいると、浮力のせいで肩に腕の重みがかからず、平泳ぎなら腕を動かすことができました。そしてかなり泳ぎまくったのです。しかしこれは後でつけが回ってきました。やっぱり固定して置いた方がいいと思ったのです。
 食べ物は魚介類が安いので、ここぞとばかり日頃食べられないものを食べました。ウミガメのステーキ、ランゴスタ(ロブスター)の焼いたもの・・など。果物も安い。そして海でウニや貝を採ってウニは生で、貝は炊いて食べました。ウニを食べないかと現地の人に言うととんでもないという顔をされました。
 浜辺にはアメリカやヨーロッパからバケイションで来ている人たちも多く、トップレスの女性が悠々と歩いていたりする。そんな中、我々日本人は桟橋から飛び込んだり沖までクロールで泳いだりとスポーツしてました。「水泳ニッポン」の証明だ、まったく!。

持病がでた(10/2〜7)
メキシコ・チェツマル
荷物運びの3輪自転車

 5日間のリゾートの後再びバスで移動することにしました。ユカタン半島のカリブ海側を南下し、チェツマルまで8時間。メンバーが増えて佐々木君と言う写真家が一緒です。ペリーセを通ってグァテマラへ行こうというのです。しかし、平野君以外はペリーセのビザを取っていなかったため、国境で「ゴーバック」と言われすごすご退散。ここで平野君とは別れ佐々木君との二人旅になりました。まずビジャエルモッサへ戻りぐるっと回り込んでグァテマラにはいることにしました。ところで私には脱臼以外にも持病があって、長いバスの旅でそれが出てきていました。メキシコシティまでの48時間のバスで一気に再発、水泳も体を冷やす結果になって良くなかった訳です。じっとしていてもずきずきとするくらい悪化していました。荷物の中に薬を持ってきていたのですが使い果たしてしまったのでメキシコで買うことにしました。メキシコでは薬屋さんはそこら中にあります。5カ国語会話の本で座薬=スポシトリオと調べていざ薬局へ。「キエロ スポシトリオ(座薬下さい)」といって出してもらったのは熱冷ましの座薬でした。「そうでなくて痔の座薬やねん」というのが言えず、思わず大げさにジェスチァーをしてしまいました。めでたく痔の座薬を手にしたとき、店中の従業員が出てきていました。「おーい、おもろい日本人が来てるぞー。」
 メキシコが合衆国というのはこの国に入国してから気が付いたのですが、その州境を通るとき検問のようなものがあります。ビジャエルモッサへのバスで、係官が乗り込んできて何か調べ始めました。簡単な調べが終わって係官が降車するとき、我々の前に来て「コモ セ ディセ アディオス エン ハポネス?(サヨナラハ ニホンゴデハ ドウイウカ)」即座には何を尋ねられたか分からなかったのですが、アディオスという言葉から何となく意味が連想でき、「さよなら」と言いました。するとその係官は、我々に「さよなら」と言ってバスから降りていきました。メキシコ人はなんて粋なことをするのだろうと思いました。後ろ姿がかっこよかった。
マヤの遺跡・パレンケにて
真っ黒に日焼けしました
パレンケ地下室にある王の棺 マヤの末裔
ラカンドンの人々

 チェツマル発が遅かったのでビジャエルモッサ着は夜になってしまいました。初めての土地でガイドブックもなくしかも深夜に到着でホテル探しは無理と判断。どこか寝る場所はないかと辺りを見回しました。するとメキシコ人の旅行者もホテルをあきらめてかバスターミナルの中で寝ている人が居るのに気が付きました。だったら我々が寝ても大丈夫だろうとコンクリートの上にシュラフを敷いて寝ることにしました。もちろん安全のためピッケルを枕元に置き、シュラフには入らずにシートを掛けて寝ました。案外すぐに寝てしまって果たして強盗が来れば対抗できていたかは疑問です。
 痔の薬が効いたのか体調は良く、もう遺跡はいいと思っていたのですが、パレンケまで行くことにしました。ウシュマルやチチェンイッツァーとはまた違った様式のピラミッド(テンプル)があり、付近ではマヤの末裔と言われるラカンドンの人々が、土産物を売るでもなしただじっと座って我々を見ていました。
 グァテマラを目指してバスに乗りました。ユカタン半島の平野部から徐々に高地へ登っていきます。昨夜からの雨が上がり水蒸気に煙る山峡の道を走っていると、どことなく日本的な叙情を感じさせます。家の軒から煙が出ていたり、山の急な斜面で牛が草を食んでいたり、止まったバスにたかってきた物売りの少年がどことなく幼なじみに似ていたり。
メキシコ南部・物売りの少年たち
ピーナッツやポップコーンを売る

顔立ちが私の友達に似ていた

とうもろこしを焼く七輪
1斗缶のリサイクル


グァテマラ入国(10/8)
 グァテマラへはメキシコから南へ続く中央アメリカの高原地帯を南下します。熱帯のユカタン半島から上がってきた身には少し肌寒く感じますが、カに悩まされることもなく快適な旅です。バスは国境の少し手前までで、グァテマラへの入国は歩きました。踏切の遮断機のような物があり、両側に銃を持った兵士たちがずらっと並んで警備しています。下手なことをしたら「ズドン」と撃たれるかも知れないと思うと、まっすぐ正しく歩くしかない。グァテマラに入って早々、珍しい物を発見しました。こちらでは普通かも知れませんが、建物のブロックの穴の中にでっかいカブトムシが潜んでいたのです。捕まえてやろうと背中を持って引っ張ったのですが、びくともしませんとてもじゃないがブロックから引き離すことができませんでした。仕方なく写真にとって帰国後図鑑で調べると、「アクテオンゾウカブト」という種類でした。惜しかった。再びグァテマラのバスに乗り首都グァテマラシティを目指します。バスは鼻の出たボンネットバス。メキシコのバスが立派に見える。ケサルテナンゴという町で乗り換え。ここで佐々木君はウエウエテナンゴというインディオ色の濃い田舎の町へ向かうので別れ、久しぶりに一人旅になりました。一人になって視線は自然と外へ向かいます。車窓からは田舎の田園風景が見えます。正確には田圃はないので、日本で言えば北海道のような緩やかな起伏のある畑が続いています。午後8時頃グァテマラシティに到着しました。

三度目のマヤの遺跡見学(10/9〜14)
グァテマラ国内便
フレンドシップ27型機
ボンネットバスを乗り継いでティカルへ

 貧乏旅行者にとって安い宿を探すことはとても重要です。翌日、安宿「ペンションメサ」を探して歩きました。無事発見。先客に日本人旅行者が居たためマヤの遺跡、ティカルへのルートを聞きました。ティカルは低地のジャングル地帯にあるためバスではかなりの時間がかかるらしい。そのため飛行機で行くことにしました。このころになるとかなり旅慣れしてきたと自分でも感じるくらい一人で何でもできるようになっていました。旅に出た初めの頃はいちいち言葉を交わした人や知り合った人に住所を書いてもらうなど、ずいぶん感傷的だったなあと思います。毎日移動して誰かと話して別かれて・・・と、いちいち感傷的になっていてはやっていけません。フレンドシップ27という小型機でフローレスまで飛び、目指すティカルへはボンネットバス。驚いたことにこの中型としか思えないバスに、座席が前後に11列、横に3人掛けが二つ通路を挟んで並んでいます。そして真ん中の狭い通路にも一人座るので、11×7=77人もの人間が乗ったのです。ところで通路の一人はどうして座ったか?答えは左右の座席に少しずつ尻をかけてまたぐ形で座ったのです。子供は料金半額、よって座席はなくお母さんの膝の上でした。
 ティカルではテンプロ=神殿と呼ばれるいくつかの建造物がにょきにょきと建っています。何枚か写真を撮るうちフィルムがなくなったので、メモ帳に何枚か神殿をスケッチしました。後で考えると、スケッチをすることは写真よりもしっかりと自分の目に焼き付けるため、記憶に長くとどめることができると知りました。ティカルではヨーロッパ人たちとしばらく一緒に行動しました。夕食時に、その中の一人がしみじみと語っていました。そして私にも尋ねました。「君は食事に問題はないか。」「ノープロブレム」と答えておきました。全く問題ないわけではありませんが、でもそんなに言うほどまずいとも思わないのです。トルティージャはパンの代わりですが、そのまま食べると味がしません。そこでフリホーレス(煮豆=これも味がしない)に砂糖をまぶしてあんこにしてトルティージャにはさんで食べたりしていました。
 フローレスに戻ると、イスラ・ムヘーレスで一緒だった郷田さんと江波戸くんと出会い、しばらく一緒に行動することにしました。シティまで戻る飛行機は満員で別便に、降りた後江波戸君が「僕の乗った飛行機の翼を見たら、ボルトが振動でゆるんでくるくる回っていた。」と興奮気味に話していました。

のんびりと休養(10/15〜11/8)
グァテマラの民族楽器
マリンバの演奏
リゾート地・アティトゥラン湖
富士山型の火山がある
グァテマラの田舎で
2頭の牛が畑を耕す

 グァテマラではバス旅の疲れをとるつもりで少しゆっくりしました。コロンビアへの安い航空券も見つかったので、しばらくゆっくりしてから飛ぶことにしたのです。とにかくメキシコからグァテマラに入ると物価がさらに安くなったと感じ、出ていくのがもったいないと感じたのです。そして、ペンションメサを拠点にして3度国内の小旅行をしました。
 一度目はアティトゥラン湖の畔にあるパナハッチェルという町。メサに集まった日本人と一緒です。みんな私と同年輩だからすぐ気が合いました。ボンネットバスにすし詰め、さすがに屋根までは乗っていませんが屋根には荷物を満載と言ったところです。快適な旅、になるはずだったのですがなにやら前の席に乗っていた現地のおっちゃんからぷーんと変なにおいがだだよってきます。何とも形容がしがたい悪臭です。窓から顔を出したり鼻をつまんだり口で息をしたりしましたがたまりません。一般ににおいはある程度かぐと慣れてしまい感じなくなると言いますかが、なんのなんのいつまでも「くさい」。下手に窓から顔を出したりしているからよけい新鮮になって臭かったのかも知れません。
 ペンション「メサ」で、使用人(ムチャーチョ)がヌンチャクの練習をしていました。カンフーを教えてもらっていると言うことです。私も少し空手をやっていたことがあったので、興味深く見ていました。すると突然、そのヌンチャクの鎖が切れこちらへ飛んできたのです。「あっ」と思ったのですが、あまりに突然あまりにボーッと見ていたときだったので避けきれず、そのまま眼鏡に当たってしまいました。ヌンチャクが回転していて、幸い横向きになったときだったので、また直前で目を閉じたのでレンズが割れただけで住みました。心配する彼に「ノー アイ プロブレマ」と答えておきました。眼鏡屋さん(アンティオホス)へ行き、見てもらうと、ドイツ製の検眼機やニコンの装置を持っていてすぐに度数などのチェックができたのですが、肝心のレンズが、「あなたは乱視が混じっているから」すぐにはできないと言う。また薄いスモークも入っていたのですがそれもないという。結局1週間待ってすごく分厚い、しかも色の少し違うレンズを入れてもらいました。帰国したら海外旅行保険で請求するつもりです。店を出るとき、「グラス」と「グラーシアス」をひっかけて洒落のつもりで「ありがとう(グラーシアス)」と言ったのですが、「いいえ」と言われました。英語とスペイン語を交えた洒落なんて日本的かな。
 2度目の旅はは古都アンティグアです。いつだったかずっと以前に大地震で壊滅的被害を受け、そのため今のグァテマラシティへ首都を移したそうです。中南米へ派遣された青年海外協力隊の人たちが語学研修をする町でもあります。グァテマラは織物が有名です。早速あちこちのぞいてメルカードでいくらかのおみやげを買いました。市内を散策していると大勢の現地の人たちが歩いています。何だろう、何か面白い物でもあるのかとついていくと、門をくぐってなにやら白っぽい建物のある所へ入っていきます。ずいぶん来たなと思った頃、前を見てはっと気が付きました。墓が並んでいて人々は花を手向けに歩いていたのです。今日はカトリックの彼岸か何か(そんな日があるかどうか知らないが)、そういう日だったのです。あわてて引き返しました。
 コパンへはシティからかなり下ります。メキシコシティからベラクルスへの下りに似ていますが、スケールは少し小さい。それでもぐんぐん下っていく感じは、軽やかなエンジン音とスピード感で楽しいものでした。チキムラというところで一泊して行かなければなりません。この町に中国系の人が経営するレストランがあり、アロスチャウファという焼きめしを食べました。何のかんのと言ってもやっぱり中華料理はおいしいと感じました。旅先で出会った日本人旅行者の弁によると、日本人が作った中華料理が一番おいしいと言うことです。(そら、我々日本人には当たり前か)チキムラから国境まで田舎道をバスで行きます。むちゃくちゃ荒れていて、でこぼこだらけ。後輪が穴につっこんだ拍子に、一番後部座席に乗っていた我々はぴょーんとと跳ねて天井で頭をしこたま打ってしまいました。国境から、コパンまでは小さなワゴンに乗りました。そして、なんとその小さなワゴンに、詰め込むわ詰め込むわ、なんと12人が乗ってしまいました。道はひどい物でした。泥濘状になった道をぐらぐら揺れながら進むのですが、幸いぎゅうぎゅう詰めの私たち乗客は一個の個体と化していたので、頭をぶつける自由もなく目的地のコパンまでたどり着きました。
ホンジュラス・コパン
石のトーテムポール
楽士たちの浮き彫り マヤ文字は漢字に似て
「へん」や「つくり」があるのかも?

 コパンはひなびた村です。遺跡がなければ何もないような所でした。しかしのんびりとしたいい所でした。遺跡見学をした後すぐさまグァテマラシティに帰りました。帰る途中、バスの窓からケソと呼ばれるチーズとカステラを買って食べました。ところがこれがくせ者で、翌日は下痢でくるしめられた。コパンで一緒だった森君というアフリカを経験している旅の達人も1日遅れで帰ってきて、やっぱり下痢になりました。
道を行く親子
交通機関は馬
牛乳缶を運ぶポニー

トップページへ