南米編

一気に南米へ飛ぶ(11/9〜11/10)                         中米編へ   旅の情報へ   トップへ

コロンビアから南
茶色い部分がアンデスなんです
黒い線を旅した


 ほんのちょっとのつもりが、2ヶ月間も中米で道草を食ってしまいました。ほんとはもっと早くペルーに入りたかったのですが、ついつい居心地が良くて長居をしてしまいました。でももっと中米にいてもいいなという思いもないわけではありませんでした。そんな思いを断ち切って11月9日早朝,一気に南米へ飛びました。というはずだったのですが、グァテマラシティを出発する時から2時間遅れ、エルサルバドル、サン・アンドレス、カルタへナを経由してボゴタへ着いたときは、カリへの国内便はすでに出発した後でした。しかし、遅れはしましたがこの機内でのできごとは、私にとってはとても面白くて、文化の違いを肌で感じることができるものでした。というのは、サン・アンドレスという島からカルタヘナへ向かって飛び立った機内で、突然一人の女性乗客が飛行機の通路に後ろ向きに立ち、高らかに歌を歌い始めたのです。周りの乗客もそれに合わせさながら合唱大会のようになりました。「アーイヤーイヤヤーイ・・・」あっ、聴いたことのある曲や。「シェリート・リンド」かな。僕も歌いたいな。などと思っているうちにどんどん曲は変わり、カルタヘナへ着いて終了。ラテンアメリカの人にとっての歌は、我々の想像以上にすこいものだと実感したのでした。
 先に書いたとおりボゴタに着いたときにはもう深夜になっていました。すでにカリ行きの国内便は出発してしまった後で、乗り継ぐ予定だった数人の客が空港事務所に向かい始めました。私はどっちでも良かったのですが、近くにいたドイツ人旅行者がかなりの剣幕で交渉しようとしていたので便乗することにしました。なんせこちらは交渉するほど言葉ができません。小柄なドイツ人と、見上げるような巨漢のドイツ人のコンビは明日の朝の便を私の分も含めて予約してきました。そして今宵の宿は自動的にボゴタ空港ロビーということになりました。警備員が時々歩いてくる以外はしーんとしたロビーでシュラフにくるまって寝ました。ボゴタは標高が高いので結構冷えました。
 翌朝、空港のカフェでそのドイツ人たちとコーヒーを飲みました。あまりおいしくなかったのか、巨漢の彼は,にやっと笑いながら「This is Colombian coffee!」と皮肉っぽく言いました。外貨獲得のため上等のコーヒーは輸出に回っているのではないかと思います。カリへ着いて空港の外へ出ると、ボゴタよりも標高が低いせいか、ぽかぽかと暖かい。何となく、5月の北アルプスから下山したときの感覚に似たものを感じました。カリではドイツ人と3人で宿に泊まりました。巨漢の彼が外出したままなかなか帰ってきません。だいぶ経って帰ってきたとき、彼は「I am catched.」と言いました。麻薬の売人が居て買ったとたんにポリスにつかまったそうです。150ドル取られたとも言っていました。大柄な割に気は弱そうな感じです。私が空手のけりを見せてやると「オー」と言っていました。195センチ、130キロの大男なのですが。
 
あこがれのアンデス縦断(11/11)
カリからは一人でペルーへ向かいました。バスターミナルから、とにかく南へ向かう長距バスに乗りました。いよいよアンデスの縦断です。バスは、舗装の行き届いたパンアメリカンハイウェイを快調に突っ走ります。車窓の風景は、高原から谷間、谷間から集落へと移り変わります。遠く黒っぽい山並みが続きますが、白銀の山は見あたりません。どうもアンデスといいつつも、コロンビアでは時々見える火山以外は雪をいただいた連綿と続く高峰というのはなさそうです。車内はカーステレオから音楽が流れています。ところがこれも、現地の音楽と言うよりもロックが流れ、アンデス風の音楽を期待していた私には少しがっかりです。まあ、もう少し辛抱せよと言うことかも知れません。
 コロンビアというと、麻薬とか泥棒が多いなどと心配事はたくさんありました。しかし、グァテマラの旅行社にそのことを尋ねると「ノープローブレム。ペルーの方が悪い。」と言っていました。実際、バスターミナルで少しリュックから離れて立っていると「クイダード(注意しな)」と声を掛けてくれる人がいたり、こちらもそれなりに隙を見せずに注意していたこともあって、何もないまま南部の国境の町イピアレスに到着しました。でもペルーで出会った日本人旅行者は、バスの中でクッキーをもらって食べると意識を失い、気が付くと何もかも取られて病院で寝ていたと言うことでした。

ミニコンサート(11/12)

国境の町でミニコンサート
コロンビア・イピアレス
窓から覗いている人が面白い


 国境へはバスで行くことにしました。ホテルからターミナルまで歩いていき、しばらく待っていると暇そうな子供たちや大人が集まってきて、「トカ トカ(弾け)」と言います。実は私は一人旅のお供に、グァテマラでギターを買っていました。それをぶら下げて旅をしているものだから、みんなが日本の曲をひいてくれと言うわけです。そこで、当時の日本のフォークソング(これが日本を代表するとは思いませんでしたが)、つまり井上陽水とかかぐや姫の曲を歌いました。そして、「実はフォルクローレを練習しているんだ」とケーナを出してきて吹きました。同じアンデスと言ってもここコロンビアでは、ケーナは使われません。私が吹きはじめると(今から思うと恥ずかしい限りですが)「ギターの名人をよんでくる」と、タクシー運転手でギターを弾く人を引っ張ってきました。「コンドルは飛んでいく」「花祭り」を二人で演奏しました。すると今度は、日本製のラジカセを持っている人がやってきて、録音を始めます。そのため初めからもう一度演奏し直し。リクエストをしてもらったり、名人の演奏を聴いたり2時間近くもわいわいやってしまいました。ギターの名手が「うちへ昼ご飯を食べに来ないか」というので遠慮なく食べさせていただくことにしました。すると、集まっていた人たちが帽子を回し始め、私にチップ(餞別、おひねり?)を集めてくれました。よく見るとコロンビアペソです。国境を越えてエクアドルへ行くんだと言うと、すぐさまエクアドルのスークレに換金してくれました。こちらの人は、気取らずに私たち日本人が感心するようなことをするんだなあ、と妙に感心しました。彼らも私に対していい印象を持ってくれたようで、それもうれしいことでした。タクシーの運転手、名前をホアンさんといいます。ちょっと太った奥さんと、高校生ぐらいから小学生までの女の子に囲まれて、こちらの人にはまれなシャイな感じの人でしたが、コロンビアのイメージを変えてくれました。タクシーで送ってもらってエクアドル国境へ着いたときは2時になっていました。
 さてイミグレーションでもギターを持っているというのが目立ったらしく、係官が何か日本の曲を一曲弾きなさいというふうに言ってきました。おっとこちらはタクシー乗り場でさんざん歌ってきた身です。すかさず日本の曲を歌いました。するとその係官が今度は私のギターを取り上げ歌ったのです。ラテン的な弾き方ですごくうまい。恐るべしエクアドルの入国係官でした。そして今度は、ツーリストカードに必要事項を記入しようとスペイン語の項目を読んでいると、近くにいた現地人が「どれどれ書いてあげよう」というような態度で私のカードを取り上げ、パスポートと見比べながらなにやら書いてくれました。何かふにゃふにゃした文字で、筆記体とも違いじっと見てもどう書いてあるのか分からない。日本語の草書のような感じです。だめで元々、それをそのまま出すとなんと「はいOK」一発ではんこをくれました。エクアドルは識字率が低い国です。彼は字が書けると言うことがさぞ自慢だったのではないか、という結論に達しました。

エクアドル(赤道)(11/12〜13)

エクアドル・キト=マチャーラ間を結ぶ
スーパータクシー?


 国境を通過してすぐに首都のキト行きのバスに乗りました。エクアドルの詳しい地図を持っていなかったので、キトという名前だけでこのバスだという風に決めて乗ったわけです。発車してすぐ、一緒に乗っていたエクアドル人らしい人物が私に何か袋に入った物を渡してきました。何かくれるのかとも思いましたが言葉が分からず、おかしいと思いつつザックに入れると、すぐに検問所がありました。メキシコでもそうだったのですが、ここでも我々日本人(外国人)はフリーパス。ははーん、あのエクアドル人はそのことを知っていて少しやばい物を僕に渡したな。と、思っていると案の定、バスが発車してすぐ返してくれと言うのでした。彼らは外国で安い物を買ってきることがあるため、そうやって税金を取られないようにしているわけです。
 車内のBGMはいつの間にかアンデスのフォルクローレになっていました。やっとこのバスに乗って目的の一つ、本場の生ではありませんが音楽に出会えました。そのせいかどうか周囲の景色を思い出そうと思ってもあまり覚えていません。わずかにカヤンベという町で、高い山を見たような記憶が残っているだけです。イピアレスで時間を食ったためキトに着く頃は夜になっていました。探す時間もなかったのですぐに近くの安ホテルに入りました。キトではエクアドルの国名のもとになった赤道の記念碑を見に行きたいと思ったのですが、バスターミナルでペルー国境の町マチャーラ行きのバスを発見、このバスなぜか側面には「スーパータクシー」と書いてありました。早くペルーへ行きたいという気持ちが勝ってしまい迷わず飛び乗りました。バスの屋根には袋に入った荷物に並んで、黒い足踏み式のミシンが誇らしげに鎮座ましましています。持ち主は誰なのか興味を持ったのですが、最後まで分からずじまいでした。
 バスは、ターミナルをスタートして快調に走ります。でもしばらく走った時、なんだか坂を下っているのじゃないかというふうに感じられました。キトは標高2800メートルの高原にあります。コロンビアからずうっと2000メートル以上をキープしていたのが、ここへ来てどんどん下っているのです。そのスケールたるや、とてもニッポンの峠道の比較ではありません。そのせいでおんぼろバスも快調に走れるようなのです。案の定、どんどんと下った後はサトウキビの生える低地の平原になってしまいました。私は、はじめに書いたように、山が好きでとにかく高いところへ行ってみたいと思っていました。高いところから周囲を見下ろすのが好きなのです。それが、汗がじとっとにじみでるような低地ではがっかりです。後で地図を見て、リオバンバという所まで行ってペルー国境を越えれば良かったと思いました。とにかく地図を持っていないので、今どの辺を走っているかはっきりしませんでした。パナマ帽のおじさんが大きなトラクターにサトウキビを積んで走っていたりしました。キトの外港(と地理の時間に習った)グアヤキルへ向かっているのではないかと思いました。一日走った後、夕方マチャーラに入りました。もうすぐペルーです。

白バイで観光? (11/14)
 翌日ペルーへ入っても良かったのですが、この町で一日ゆっくりすることにして久しぶりにジーンズを洗濯しました。洗面所でたわしに石鹸を付けごしごしこすります。よくすすいで干しておくと半日もかからずに乾いていました。
 次に近くの公園へ行きのんびりと町の様子を眺めていると、警官が小学生くらいの少年にブーツを磨かせていました。ヘルメットと服装から白バイ隊員だと分かり、すぐ近くを見ると白いヤマハのバイクが止めてあります。「へえー、警官が公務中に靴を磨かせるか」となかばあきれて見ていました。途上国では小さな子供でもいろいろと仕事をして家計を助けているようで、私もメキシコでは思わず勤労少女からハンモックを買ってしまったりしました。靴磨きの少年は私のバックスキンの登山靴も磨かせてくれと言うので、これは少し皮が違うので、と丁寧に片言のスペイン語で断りました。そうこうするうちに白バイ氏が市内巡回の仕事に戻ろうと出発しようとしました。ところがスタートしようとクラッチレバーを握ったとたんにワイヤーが切れてしまったのです。実は私は大のバイク通、ヤマハの650とホンダのトライアル車の2台所有してメカも大好きです。「テンゴ ヤマハ(ボクモヤマハを持っている)」と言って近づき、応急処置をしてやったのです。すると白バイ氏はバイク屋へ行って直すから一緒に来いと(言ったようで)、私を乗せて町はずれのバイク屋さんまで走って行きました。店には若い修理工が2,3人いて、そのうちの一人が新しいクラッチワイヤーを取り付け始めました。ワイヤーを通すためにタンクをはずし、ガソリンパイプを抜いて、新しいワイヤーを付けると元に戻していきます。見ていると、彼はエアクリーナーの取り付けを忘れたまま元に戻してしまいました。
 さあ直ったと、白バイ氏がエンジンを掛けようとしましたがいくらセルを回してもうんともすんともいいません。なぜか分からず不思議そうにしているので、さっとタンクをはずして忘れていたパイプを付け直し元に戻すと、一発でエンジンがかかりました。白バイ氏が喜んだのは言うまでもありません。お礼に市内巡りをしてやろう、と言ったかどうかは定かでありませんが、私を乗せるとあまり大きくないマチャーラ市をバイクで一周してくれました。そして、元の広場に戻ってくると今度は「お前女は好きか」と尋ねてきたのです。いきなりなので私も面食らい、またどういう展開になるか想像もつかなかったので、あいまいに返事をしました。するとやにわに、町行く女性に声をかけ始めたのです。「コノオトコ ハ ドウダ」。これにはさすがに参り、「ノーノー」と断ってあわててその場を立ち去りました。エクアドルでは、白バイもぽん引きに変身するという、ほんと、びっくりしたけど惜しかった。

ついにペルー入国 (11/15)

ペルー国境で
リマまでのバスを予約する
砂漠の中にこの美人!
ペルー海岸部の砂漠地帯
原油掘削ポンプが働く


 翌日国境までのバスに乗り無事ペルー入国。後で出会った日本人は入国税と称して国境でなにがしかのお金を取られたといっていましたが、私はギターのおかげかフリーパスでした。どの国の国境でも興味を持って尋ねられたり、演奏をさせられたりはしましたが、金品の要求には出会わなかったのです。これもラテンアメリカならではの音楽の効用だと思いました。砂っぽい国境地帯を歩いてバスに乗り込み、トゥンベスという町へ出ました。ここで長距離バスを予約、なんと21時間であこがれの首都リマまで行くそうです。リマへ行けば日本人旅行者がたまり場にしているペンション西海もあり、いろいろな情報が得られます。グァテマラで知り合った堀田君とペンション西海で落ち合って、一緒にコルディエラ・ブランカ山群のトレッキングをしようという約束もしています。
 早速リマ行きのバスに飛び乗りました。バスはペルーの海岸沿いにパンアメリカンハイウェイを一路南下します。ペルーの気候は大まかに縦に3つに分けられ、海岸部は砂漠地帯、ついでアンデスの高原地帯、そしてアマゾン側の熱帯雨林気候があります。その海岸の砂漠を走るわけですから道は平坦でまっすぐなのはいいのですが景色はいっこうに変わりばえせず、退屈この上ありませんでした。しかし、もう少しで一応の目的地ペルーの首都リマに着くと思うとうれしさがこみ上げてきました。
 私たち日本人は、砂漠=熱帯というような錯覚があり、熱いというイメージを持ちがちです。ですから、私は中米を旅してきたそのままの格好でバスに揺られていました。ところが、夜になると車内はぐんぐん冷え始めとても眠ってなどいられない状態でした。こちらの人は夜行のバスには毛布を持って乗っていることが多く、体に掛けて寝ていました。幸い隣ののおばさんが毛布を半分掛けてくれました。ありがたい。ついでにおばさんにペンション西海(にしうみ)はどこかとたずねると彼女の住んでいる所のすぐ近くという。このおばさんは、私がカメラを持ってしきりに写真を撮るのを見て「プロフェッショナル?」と思ったようです。
リマのダウンタウンのバスターミナルから一緒に西海の方へ歩いていく途中、昼ご飯を食べていかないかと誘われ恩義に預かることにしました。

ペンション西海 (11/16〜19)
 西海さんというのは私より3つ4つ年上の北海道生まれの方でした。本業は板前さんということで、もうすぐリマで日本料理店を開店する予定と言うことです。自宅をペンションにされているのですが、1泊2食つき、それも日本料理付きと言うことで日本人旅行者にとってベースキャンプのような所でした。グァテマラのペンションメサも日本人旅行者の多いところでしたが食事までは付いていません。私も久しぶりの日本食や旅の情報、日本の雑誌などむさぼるように吸収しました。
 ところで、私は大学時代は落語研究会でしたから、リマで落語をやりたいと思っていました。日系移民が多いこの土地で落語を聞いてもらい笑ってもらうことで自分の色を出したいと考えていたわけです。早速西海さんにその話をし、日秘文化会館と言う施設があることやペルー新報という新聞があることなどを教えてもらいました。グァテマラで出会った堀田君を待つ間、寄席をするための情報集めを始めたのです。もちろんその間、本場のペーニャ(ライブハウス)で生演奏も聴きまくっていました。セントロの近くにペーニャ・ウィファーラというライブハウスがあり、夜9時頃から午前2時近くまでフォルクローレの生演奏をやっています。最初に行った日には、昔来日して演奏したことのあるルイス・ドゥランやロス・ウロスというグループがペルーの民族色豊かな演奏やサンポーニャの迫力ある演奏をしていました。ロス・ウロスの中に左利きのチャランギスタがいて、演奏が終わった後話をしてチャランゴの曲をテープに録音させせてもらいました。
 翌日リマの街角を歩いていると偶然にもこのチャランギスタと出会いました。彼は自分で作ったケーナを売っていました。仕事は歯の技工士だと言っていたのですが、アルバイトなのかも知れません。早速私はケーナを一本買って街角で教えてもらうことにしました。彼はチャランゴもケーナも出来ます。私がケーナを吹いて彼が伴奏。彼が吹いて私が伴奏といろいろパターンを変えてやると、人だかりが出来てそのうち何本かケーナが売れるという具合です。以来、毎日街角へ通う日々が続きました。
 数日して堀田君がペンション西海にやってきたので早速トレッキングに出かけることにしました。
 リマから少し北にあるコルディエラ・ブランカ(白い山脈)はペルーのスイスと呼ばれる白銀の峰が連なるところです。最高峰ワスカランの周囲を歩くコースがトレッカーに人気が高く、コースもわかりやすいので二人で歩いてみることにしました。しかし4800メートルの峠を二つ越えるため、高度順化が出来ていないとひどいことになるかも知れません。

プランカ山群トレッキング (11/20〜22)

ワラスの夜明け
遠くかすかにワスカランが
おいおい脱輪だよ


 リマ発の夜行バスは約10時間でワラスにつきます。気軽な気持ちでバスに乗りました。しかしこれが間違いの元。バスは途中4000メートルの峠を越えます。リマは暖かくても単純計算で一気に24度も気温が下がります。それでも車内に暖房があれば別段どうと言うことはなかったのですが、あいにく前の席のガラスが割れていてびゅーびゅーとすきま風が吹き込むのでした。歯の根も合わずガタガタふるえていたことは言うまでもありません。
 翌朝5時、眠気もとれぬままワラスに到着しました。コーヒーを飲みながら夜が明けるのを待っていると、闇の中からアンデスの高峰が続々と姿を見せ始めました。図体の大きな山や針峰群。しかし、見えていたのはつかの間で、しばらくするとどこからともなくわき上がってきたガスに包まれて見えなくなってしまいました。
 ペルーの気候は大きく乾季と雨季に分けられます。日本を出発する前には分からなかったのですが、今は雨期。ブランカ山群が見えたのは結局この時だけでした。あとは、今回のトレッキング中1度か2度しかありませんでした。
 ワラスでは日系一世の谷川さんという方が登山隊の世話をしておられる。我々はトレッキングではあるが、情報を仕入れるべくお伺いしました。ついでに食料も仕入れ、肉と野菜を炊き込んで水分を抜きラードで固めた「ペミカン」というトレッキング中の携行食を作った。
 ワラスからはコレクティーボと呼ばれる乗り合いタクシーに乗ってカラスへ。相客は5歳くらいの男の子とその母親、二重瞼のきれいな男の子だった。
 カラスの宿はロシデンシャルと呼ばれる安宿でした。どのくらい安いかというと、共同のトイレと共同の水シャワー、わらのベッドで一泊100円。翌朝、のみが飛んでいるのを発見しました。
 カラスからは、「カミオン」という人間も荷物も一緒に載せるトラックで入山口のカシャパンパへ向かいました。ところが、しばらく行くと脱輪。何でもない所だったので乗客も降りてわいわいと押しています。そしてまた行くと、断崖絶壁に付けられた、丁度南アルプススーパー林道、夜叉神トンネルを抜けたようなところで土砂崩れのため通行止め。向こう側に別のトラックが迎えに来ていました。

 ・サンタクルス谷からウニオン峠へ (11/23〜25)

サンタクルス谷を行く
氷食地形のU字谷をなす
タウリラフ(5830m) ウニオン峠(4750m)ヘ
石畳がインカ王道の名残か


 カシャパンパという小さな村の民家の軒先でテントを張りケーナを吹いていると、インディヘナの少女と少年がやってきました。私のケーナを聴いて、はにかんだような表情をしています。小柄で、幼そうでありながら、かげりのある表情が、私にはとても堪えました。
 翌朝、気分を引き締めてトレッキングに出発しました。昨夜は雨がぱらついたのですが、今は高曇りで安定しています。目の前に、これから登っていくサンタクルス谷の出会いがV字型に見えます。とことこと登っていくと少年に出会いました。「ブエノスディアス」。釣り竿と釣果をぶら下げていました。
 谷筋の道はよく踏まれていて歩きやすいのですが、至る所に牛の糞が落ちていて、うかうか景色を眺めながら歩いていると踏んでしまいます。しかし、仮に踏んだとしても歩いている内にとれるからと気楽にいきました。調子よく歩いていると知らず知らずのうちにオーバーペースになっていて、少し息が切れました。標高は3500メートルを越えているからそれも当然です。2時間ほどでいったん平坦になった地点に出ました。谷の流れは緩くなっていて、上流を見やるとU字型に見えます。このあたりから氷触地形になるようです。してみると、この平坦部分は昔の氷河の堆積物のたまったモレーンではないかと、地理で学習した知識がよみがえってきました。付近に生えている草は稲科の「イチュ」が多くなってきました。このイチュは牛や羊は食べず、リャマが食べると聞いていました。ですから、そのうちリャマが出てこないかとわくわくしてきました。
 登ってきた方を振り返ると、V字型の谷の間に前衛山脈のコルディエラ・ネグラ(黒い山脈)が浮かび上がっています。ちなみに我々が目指しているのは、コルディエラ・ブランカ(白い山脈)なのです。なぜブランカかというと、氷河で1年中白く見えるからだそうです。
 平坦な、草原のような谷沿いを歩いていくと、時々放牧中の牛やロバに出会いました。最初よく踏まれている道だと感じたのは、実は人間ではなく牛たちが踏み固めた物らしい。そう考えるとこの道は「獣道」なのかもしれない。
 下山してくるインディヘナのおじさんに出会ったので、挨拶をして振り返って驚きました。何とそのおじさんは、背中に子牛を背負っていたのです。大きな風呂敷のような物で包んで背負っています。子牛が首だけ出してこちらを見ていました。イチュばかりの原っぱを歩いていくと、湖がありました。地図によると「アトゥンコーチャ湖」です。ブッシュの中を苦労して回り込み、上流側の平坦地にテントを張りました。石をめくってミミズを発見、釣りをしてみましたが全くつれませんでした。標高はほぼ4000メートル、夏用のシュラフにマットなしなのでとても寒く、何度も目が覚めました。
 夜は時々雨が降っていましたが、何とかあがっています。ペルー味の素製のラーメン、「アヒノメン」を食べて出発しました。しばらく行くと、原っぱの真ん中に大きな四角い岩が転がっていました。あまりの四角さに、ひょっとしてインカ時代の物かもしれないなどと考えてみました。そういうふうに考えると、ますますインカの物に思えてくるから不思議です。実際、何でもないというと何でもないのですが。
 山は間近のタウリラフ以外はガスの中で何も見えません。今は雨期で見えないのが当たり前、普通トレッキングに訪れるのは6月頃が多いと聞きます。原っぱが終わり、傾斜がきつくなった斜面をウニオン峠に向かって登り始めました。4200メートルを越えた頃、再び原っぱになりました。どうも階段状に高度が上がっていくようです。ついに雨が降り出しました。この原っぱにはかなりの数の牛と馬が放牧されています。晴れていればのどかに見える光景も、どことなく暗く見えます。牛たちもあばらが浮き出ていたりして厳しい環境に耐えて生きている様子が思いやられました。
 辺りの草は、もうほとんどがイチュばかりです。ところがイチュを食べるはずのリャマやアルパカは全く見えません。代わりに牛や馬がイチュの下のわずかな草を食べているようでした。後で聞いた話によると、リャマやアルパカはペルー南部の高原地帯にいるとのことでした。どうも、イチュ=リャマとか、アンデス=コンドルなどと勝手な想像をしてしまうことがだめなようでした。そういえば町を歩いていると、東洋系=カンフーと思われて、「アチョー」と言われたことがたびたびありました。
 やがてイチュも少なくなり、ガレ場の斜面にかかる頃、数人のインディヘナの人たちが追い抜いていきました。さすがに速い。あっという間に見えなくなってしまいました。がらがらの斜面が一枚岩に変わって、4500メートルを越えています。体全体がだるくて、歩くスピードもゆっくりになり、やたら休む時間ばかり長くなってしまいました。石畳と思われる岩の上をジグザグに登ると、やっとウニオン峠につきました。雨は横殴りに吹き付けて、休む場所もありません。写真撮影をして早々と下り始めました。
 峠の反対側も一枚岩で、所々石が並べてあります。ブッシュに入り込むところで道を見失ったのですが、何とかみつけました。でももう体はびしょぬれです。予定では今日中にコルカバンバという村に着くつもりでしたが、この調子では無理になってきました。それで、岩がごろごろしている地点で少し張り出した岩の下を見つけビバークすることにしました。枯れたイチュが敷いてあり先に誰かが寝たようでした。とにかく寒く疲れているので食事を作りました。ラーメンとご飯です。米はメルカード(市場)で買ってきた現地米。標高4200メートルぐらいで沸点が低いので水をたくさん入れて炊きました。沸騰しているときに試しに指を突っ込んだのですが、指が冷えていたのか沸点が低かったのか、ちょっと熱い程度でした。
 翌日はきれいに雨もあがっていました。でも5000メートル以上はガスがかかって見えず、上空をかなりの速さで雲が流れていました。雨滴の残るイチュの原っぱを、ワリパンパ谷に沿って下るとアマゾン側のせいか幾分緑が濃いように感じます。靴はもうびしょぬれでグチュグチュといっています。でも気分は上々、なんたって下りだから足が進みます。瀬音が大きくなってきて小さな村が現れました。犬がけたたましく吠えるので何かと思えば、道の真ん中で山羊が赤ちゃんを産んでいました。まだ血や羊水で濡れています。しばらく様子を見て待っていたのですが、いつまでたっても進展しないので母山羊を刺激しないよう脇をそろりそろりと抜けて通過しました。

 コルカバンバの村 (11/26)

ワリパンパ谷沿いの道
山羊が赤ちゃんを産んでいた

トルッチャ(マス)
おいしくいただきました


 
コルカバンバは、ユンガイからヤンガヌコ峠をアマゾン川に越えた所にあります。ブランカ山群が分水嶺になっていてサンタクルス谷の水は太平洋へ、ここコルカバンバの水はアマゾンを経て太西洋へと流れています。なんとも壮大な話です。標高は3400メートル。登山隊が来たときにはベースキャンプにすることもあるらしく泊めてくれる民家があります。ここ何日か3000メートル以上の高所にいるせいか、堀田君の歯が痛み出しました。私は、旅に出る前に全部の虫歯をしっかりと治療してきたので大丈夫でしたが、疲れもあるのでここで2泊してゆっくりと休むことにしました。
 堀田君が家の人に歯痛の薬はないかと尋ねると、逆に私も痛いんだと言われ、仕方がないので正露丸をあげました。この辺りでは歯が痛くなると治療などせずに抜いてしまうそうです。中南米では笑うと歯の抜けた人が多く、何ともユーモラスですが、なるほど原因はそれか、と納得しました。びしょ濡れの服をぬいで乾かそうと思いましたが、肌寒くすぐにやめました。ずっと着ていて自分の体温で乾かすことに決めたのです。これを大学のワンゲルでは『着干し』といっていました。
 少年が数人いて独楽回しをして遊んでいます。すべて手作りの独楽をうまく使って回していました。折り紙や竹とんぼを作って見せてやりましたが興味を見せませんでした。それで、釣りをするから魚のいるところを教えてくれと頼むと、投網を持ってついて来いと言います。例によって石をめくるとミミズがうじゃうじゃいました。ところがポイントに着いて釣ろうとすると、少年が投網を投げてしまいました。これではつれません。でもその投網にトルッチャ(マス)が2匹かかりました。何度か釣ろうとしましたが、彼も又と網を投げるので釣るのを諦め宿へ帰りました。
 投網でとった「トルッチャ」を持ってきた醤油(ロサンゼルスで買って水筒に入れていた)で付け焼きにして食べました。みんなに振る舞うとおいしいと喜んでいました。
 この家には、いろんな物がありました。登山隊の置いていったカシオの電卓、ラジオ、骨で出来たケーナ、バイオリンなど。動物もたくさんいます。猫、犬、鶏、豚、ウサギ、家の中にはモルモット(クイ)、家の外には牛、ロバ、馬といった具合です。豚がいると他の動物の糞を食べてしまうので庭がいっこうに汚くならないから便利です。でもいずれ人間に食べられてしまうのかもしれません。

 ヤンガヌコ峠へ (11/27〜28)

ヤンガヌコ峠(4737m)
ロバのキャラバン コルカバンバへ向かう
ワスカランが垣間見えた


 コルカバンバからはいきなりの急登でした。道は、交易路らしく歩きやすいのですが、高度が高いのと朝から雨でしんどい雰囲気です。自然に歩く速度もゆっくりになります。昨日、宿の壁塗りの土をこねる仕事を手伝ったのですが、日本でのようにスコップを使うと5分と続きません。万事ゆっくりゆっくりがこちらのペースです。道は歩きやすくても常に一定の勾配で、息を抜けるところか゜ないので疲れます。歩き始めて3時間ぐらいで4200メートルまであがりました。ユンガイからの道路がここまでのびて来ていました。もうすぐコルカバンバまで付くに違いありません。(最近「山と渓谷」という雑誌を見ると、コルカバンバまでトラックで入れるようです)ひたすらゆっくりと登り続けました。4500メートルを越えてからが特にだるく、頂上に着いたのは午後3時になっていました。頂上にはグァテマラで出会ったスイス人が言っていた「コテージ」がありました。でもそのコテージはコテージと言うよりも掘っ建て小屋と言った方がぴったりでした。小屋のおじさんに熱いコーヒーを入れてもらいましたが、標高4737メートルのヤンガヌコ峠では、ぬるいコーヒーでした。でも甘くて、疲れた体にはとてもおいしく感じました。晴れていれば、ペルー最高峰のワスカランやワンドイが見えるはずなのですが、あいにくのガスで何も見えません。見えるのは崖下へ延々と続くユンガイへのトラック道路です。
 ここでは、物資を置いておく小屋に泊めてもらいました。小麦や塩の入った袋が並べてあり、その上へシュラフを敷いて寝ました。
 翌日は、明け切らないうちからインディヘナの人たちが集まってきていました。ここまでトラックで運ばれてきた物資を馬やロバに積んでアマゾン側の村へ運ぶためです。昨夜の雨は雪に変わったらしく5センチ程度つもっています。解けた雪や泥で路面はぐしょぐしょのどろどろですが、インディヘナの人たちは平気で、裸足にサンダル履きという軽装でした。そういえばコルカバンバの使用人の少年たちは寝るときも横にならず、自分の着ているポンチョにすっぽり入って膝を抱えて寝ていました。強いなあと感心しました。やがて三々五々インディヘナのキャラバンが去った後、空のトラックに乗ってユンガイへ向かいました。
 がらがらの斜面に無理矢理つけたようなジグザグの地道を下ります。堀田君は歯痛のため助手席に乗せてもらいましたが、私はその他の荷物と人間と羊と一緒に荷台に乗りました。堀田君が怖がるので運転手はよけい道の端に寄せたりしたそうです。そんなこともつゆ知らず、アンデスの景色をながめていました。しばらく下るとガスの中から出て晴れ間も見え始めました。この谷もやはりU字谷で、両眼はつるつるの岸壁です。空の色とヤンガヌコ湖の深い緑が美しいと思いました。少し離れてビクーニャ(リャマよりも小型の野生種)が草を食んでいました。
 突然周りの景色が一変して明るくなったと思うと、ヤンガヌコ谷からユンガイ近郊の平地に出たところでした。まるで深山幽谷から穏やかな農業地帯に出たようでした。結婚式なのか着飾った人が集まっていました。乗客の一員の羊がけんかを始め、おまけにおしっこをしてしまいました。みんなにこにこしながらその様子を見ていて私も笑ってしまいました。
 ユンガイは、1970年に大きな地震があり、町全体が土石流に埋まって甚大な被害を出した所です。そのことは日本にいたときに新聞記事に少し出ていたと記憶していました。ですからユンガイの町に行ったとき、まだ10年しかたっていないので爪痕はないかと見てみました。しかし、一介の旅行者にすぎないものの目には、はっきりと分かりませんでした。所々大きな土の盛り上がりがあって少し不自然に感じた程度でした。土の下に犠牲者が埋まったまま新しく町が出来ていったという話でした。
 ワラスでは、再び谷川さん宅を訪問し無事下山したことを伝えたのですが、泊まっていきなさいという言葉に甘えてまたしてもやっかいになってしまいました。

 鉄道世界最高所を通る(12/10〜11)

ワラスから戻って再びペンション西海に入りました。宿泊者は長逗留している旅行者が多く、顔ぶれは少し変わった程度でした。そのため、何年も出会っていない友人に出会ったようで少し長く休養しようか思ってしまいました。午前中はほとんど寝ていて、午後からぼちぼち行動に移すのです。フォルクローレを聴いたり、町で買い物をしたり、日本へ荷物を送ったりいろいろありました。
 そうして色々出来た非常に居心地のいいペンション西海ですが、このままずるずると止まってしまうとだめになってしまいます。一念発起、鉄道とバスを乗り継いでクスコへ行こうと堀田君と二人で出発しました。

     オロヤ鉄道の車両    オロヤの町並み(鉱山らしい雰囲気)

 前日に切符を買っておき準備万端整えて、早朝のリマ・デサンパラードス駅へ行きました。鉱山でとれた銀を運ぶオロヤ鉄道(現在は廃線)です。リマからリマック川沿いにアンデスに向かい標高4782メートルのティクロ峠を越えてオロヤへ着き、少し南へ下ったワンカイヨが終点です。このオロヤ鉄道が鉄道の通る世界最高地点である、と地理の時間に学習しました。まさか自分が乗るとは思ってもいませんでしたが、興味のない人から見るとどうでもいいことを、よくもまあ覚えているものだと我ながら感心します。
 列車は空いていて、一つの車両に10人程度です。堀田君と向かい合って座りました。用心のため荷物は棚には上げず窓側の席に置き、通路側からひったくられないようにしました。ゆっくりと駅を出た列車はしばらく行くとすぐにリマの街から離れ、何の変化もない退屈な田舎を走ります。朝早く起きた反動か、すぐに眠くなってきました。二人ともうつらうつら、泥棒に注意を払わなければいけないのも忘れ眠ってしまいました。どれくらい走ったのか、ふと気が付くと、赤茶けた急斜面で列車が止まっています。そしておもむろに動き出しました。今しがた目が覚めたばかりなので、すぐには状況が分かりませんでしたが、どうやら進行方向が逆になっています。そうこうするうちに再び止まりました。そして、また今度は逆の方向に走り始めたのです。「スイッチバックだ。」これまで日本では乗ったことがなかったのですが、急傾斜を登るためにこういったスイッチバックがあることは知っていました。そのスイッチバックを今体験している、と考えると急に楽しくなってきてしばらく様子を観察していましたが、同時に標高も高くなっているせいか眠気が出て(睡眠不足か高山病の影響かは不明)またまたうとうと。気が付くと列車は既に峠を越えたのか、さっきまでの降りて小便をしても追いつけるようなスピードと違い、猛スピードで下り勾配を走っていました。オロヤに停車。おなかが減っていたので窓から顔を出してパンを買いました。お金を渡してすぐ走り出したらどうしよう。なんて考えていると買いそびれてしまいます。なんとか買うことが出来ました。列車は標高4000メートル近いプーナと呼ばれる高原を走っています。夕方、アンデス高原の町ワンカイヨに着きました。
 ワンカイヨで一泊した後、翌日の夜行バスでアヤクーチョに向かいました。午後ワンカイヨを出発すると次の日の朝にはアヤクーチョに着きます。バスターミナルを発車したバスは高原の道を行きます。それにしてもものすごい悪路です。バスのスピードメーターが壊れているのではっきりとは分かりませんが、時速20〜25キロくらいです。夜ふっと目を覚ますと、バスのスピード極端に落ちていました。目をこらして見ると、谷にかけられた橋を慎重に渡っているのでした。その橋は、というとバスのタイヤの幅程度の板が2本渡してあるだけでした。
 真夜中近く、小さなドライブインに停車しました。しばらく休憩ということなのであかりを避けて暗いところで空を見上げてみました。ここは南半球(南緯12度)なので見慣れた星座はありません。ふと、南十字星はどれか知りたくなりました。星が十字型に並んでいるのか、それは4つなのか5つなのか全く知らず、また北も南も全く分からない中、それらしい星を見つけました。周囲に人もいないので、はっきりしないままドライブインに帰ってペルー人にたずねてみました。もちろん片言で「ミナミ、ホシ、ジュウジ・・・ドレ?」と言うと、何を言ってるんだというような顔をして「星だ」と言いました。いちいち空の星に名前なんか付けていないのかもしれません。
  
 高原の町アヤクーチョ(12/12〜14)

  ワリの遺跡はウチワサボテンの中を通っていく         ホテルの屋根越しに見る


 
 アヤクーチョはアンデス山中の盆地にあり、期待していたとおり景色のきれいな所で、町自体もこぢんまりしていい感じでした。リマにいたときには、奥地へ行くとゲリラがいるなどと、よくない噂も聞いていたのですが、我々がメルカードに行くと「日本人があの家に住んでいるよ」などと教えてくれたりしました。アンデス特有のコカのお茶を飲んだりレストランでフォルクローレのライブステージを見ました。翌日はワリの遺跡見学に出かけました。カミオンと呼ばれる乗り合いトラックの荷台に揺られていきました。客は数人いたのですが、中の一人がいやに我々に近づいてくるなと変に思っていると、その客が降りていったあと、堀田君の手提げ袋がかみそりのような物で切られているのに気づきました。幸い中身は抜き取られていませんでしたが。
 ワリの遺跡は、アヤクーチョから30分くらいの所にありました。入り口に数人の男がいて、バケツにサボテンの実を入れています。周囲はウチワサボテンに囲まれていて、その中に遺跡らしい石組みがあるという具合です。帰るときに男達にサボテンの実を食べないかと進められました。ナイフで二つに割り、うまく棘をさけながら食べるのです。赤くよく熟れた実を食べると熟した柿のような味がしてとてもおいしかったのですが、たくさん食べていると知らないうちに唇にとげが刺さっていました。
 
 アンデス縦断夜行バスでクスコへ(12/15〜16)

          夕暮れのアバンカイ   クスコ間近のドライブイン(といえるかどうか?)

 アヤクーチョを後にしてクスコへ向かうことにしました。リマからクスコへの直通バスに途中から乗ることになるので、座席は既に満員になっていました。堀田君と二人、バス前部にあるエンジンの突起の上にまたがって座りました。クスコまで24時間こんな調子だと困るなあと思いながら、我慢して乗っていました。
バスはアヤクーチョの町を離れるとぐんぐんと高原へ登っていきます。日本だったら大きな峠でもせいぜい30分も登れば頂上に着くのですが、2時間ぐらいずっと登っていました。やっと登りが終わると、そこはただっ広い高原でした。遠くにビクーニャが群をなしていました。やっと思い描いていた風景に巡り会えました。
 突然バスが広い平原で止まりました。トイレタイムのようです。これまで、メキシコでもコロンビアでも、トイレタイムはドライブインばかりだったので、さすがに驚きました。我々男はまあ別に問題はないわけですが、女性はどうするのだろう?と思っていると、アンデスの女性は傘のように広がったスカートをはいているので、そのまましゃがんでやっていました。なんとたくましい。
 バスはカーステレオの音楽をかけながら走っています。中米やコロンビアではアメリカのロックがかかっていたのですが、パンアメリカンハイウェイを南下するに従ってフォルクローレがかかり始めました。このバスももちろんフォルクローレだったのですが、試しに持参していた日本のフォークをかけてもらいました。でもかけた曲が悪かった。よしだたくろうの「人間なんて」。「にんげんなんてらららららららら・・・」と、がなりながら歌う「人間なんて」は、こちらの人には音楽と言うより雑音に聞こえたようです。耳を押さえながらにやにやしていました。やっぱり意味が分からんとあかんのとちゃうか。と堀田君と納得しました。
 随分高原を走った後、バスは谷へ下り始めました。日も暮れてきたのですが、こんな所でも時々バスを待っている人がいて、満員でもどんどん乗せていきます。いよいよ車内はすしづめ状態になってきました。しかしその内、降りる人も出てきて少しずつゆったりとしてきました。アバンカイで結構多くの人が降り、車内がすいてきたので後部座席の方に移動してゆっくり寝ようと思いました。。しかし、思いに反して後部座席は風がびゅうびゅう吹き込んで寒いの何の。どこか窓ガラスが割れていたようです。堀田君はシュラフを出してきてちゃっかりもぐり込んでいました。
 夜が明けてふと気がつくと、バスは谷間に降りていました。何となく騒がしいようなので、はて何事かと窓の下を見ると後輪をぬかるみにとられて立ち往生していました。みんなで後ろから押すと、すんなりと脱出できました。
 高原へ上がるとあたり一面豊かな畑が続いています。よく見るとトウモロコシのような物が生えています。遠く雪を抱いたアンデスの峰が続いています。ようやくバスも終点のクスコに近づいてきました。そしてとうとう、インカの石組みが残るクスコの町外れに到着しました。

 インカトレールを通ってマチュピチュへ(12/17〜20)
 他の乗客について歩いていくと、町の中心部のセントロに出ました。中世ヨーロッパ風の教会や、インカ帝国時代の石組みが現れてきました。
 インカ帝国を支える1つの柱に整備された道路がありました。インカ王道と呼ばれる道です。首都のクスコから四方八方へとその王道はのびており、石畳だったそうです。古代ローマ帝国のそれと似ていますが、スペインがインカを征服するのにその道を使ったと言うから歴史とは皮肉なものです。現在その王道の一部が「空中都市マチュピチュ」の遺跡付近に残っています。外人観光客向けのハイキングコースのようになってはいるものの、途中に標高4200mの峠を越え、3日ほどかかると言うから半端じゃありません。ツーリストオフィスで地図を手に入れ歩いてみることにしました。

   ウルバンバ川を渡る  第1の峠に向かって歩く      眼下にウルバンバ川、対岸の高峰はベロニカ


 登山に使う食料は近くのメルカードで買いました。味の素のインスタントラーメン「アヒノメン」や日本で言うと外米になる長粒米などです。ところが砂糖はどこへ行っても売っていません。どうも統制されているようです。何度か食事に通って親しくなったメルカードのセニョーラがわけてくれました。
 クスコ発、朝6時のサンタアナ鉄道でマチュピチュに向かいました。クスコは盆地になっているので、列車はスイッチバックを繰り返しながら周囲の高原へ上ります。満員の乗客を乗せて列車は進みます。次第に町並みが谷底へ沈んでいきました。しばらく明るい高原を走ったあと今度はウルバンバ川沿いに進みます。ガッタンガッタン揺れる車内で相席のペルー人が話しかけてきました。はじめは「どこから来た。」「どこへ行く。」などという話をしていましたが、そのうち「どんな女が好きだ。」とたずねてきました。ラテン系の人はみんな「アモール」が好きです。エクアドルでもポリスから女を紹介しようと言われたぐらいですから。でもこれにはちょっと困ってしまいました。
 ウルバンバ川の流れが幾分大きくなり、峡谷に入ってまもなく入山口の駅に着きました。KM88と地図には示してあり、べつにコーリワイラチーナとも書いてあります。何名かのツーリストと現地人について下りました。汽車を見送った後地図を頼りに歩き始めました。
 今回のトレッキングはブランカ山群を一緒に歩いた堀田君と山は初めての渋沢君が一緒です。駅からすぐにウルバンバ川を渡るのですが、橋はなくワイヤーが掛かっていてロープウェイのようになっています。昔、北アルプスの朝日岳に登ったときにあった瀬戸川の渡しに似ています。メスティーソのおっさんがいて渡し料金と入山料を取っています。しぶしぶ払って入山しました。
 しばらくは樹林帯の中を歩いていきます。そのうち上流から流れてきた土砂が堆積してダムのようになったところに出ました。急斜面を上ると今度は谷沿いの快適な道になりました。両岸は切り立った崖で時折日も差す上々の天気です。でもその分のどがかわいてきました。空気が乾燥しているからでしょう。谷が二股になっているところにアドベ(日干し煉瓦)づくりの粗末な家がありました。でもその外観に似合わず軒下にコカコーラが積んでありました。1本買って飲みました。「うまいっ。」と言うはずだったのですが、冷えていないのと気圧が低いのでやたら泡がでて、腹ががばがばになってしまいました。
 道は二股の谷の右側に入り、急に傾斜を増してきました。支流に入ったので当然と言えば当然です。本流をそのまま行くと、この辺で一番高いサルカンタイという高峰に向かうようです。ひとしきり急な坂を上ると小さな小屋があったのでここで昼食にしました。他にも何人かの西洋人パーティーが来ました。
 樹林帯の隙間から時折目指す峠が見えます。峠付近は明らかに周囲と色が違って、低いところの黒っぽい緑色に対して、ススキのような枯れ葉色をしています。今歩いているところは針葉樹の樹林帯なのですが、たぶん峠の付近は森林限界の上で、草原なのだろう。しかもたぶんリャマやアルパカが食べるというイチュなのではないかと思いました。樹林帯の中をかなりかなりばてながら歩くと、ひょっこりと草原に出ました。所々灌木がある他は全てイチュが生えていて、テントサイトにもなっているようです。標高4000メートル、今日の泊地にしました。

  あこがれのサルカンタイをバックに


 夜半過ぎ、もうすぐ雨期なのか少し雨が降ったようでした。寒さで時折目が覚めたのであまりすっきりとした目覚めではなかったのですが、天気の方もガスに包まれていました。もやもやとした中をゆっくり歩いていくと、突然大きな牛が霧の中から顔を出してびっくりすることがありました。
 アンデスの谷は、ブランカ山群でもそうだったように氷触地形のせいか、谷を上ると階段状に高くなっていくようです。氷河で削られた土砂が堆積していて、下から見ると「あ、もう頂上だ」なんて思ったのもつかの間、いざ登り切るとカールの底だったりします。そんな小さなカールを二つばかり超えて標高4200メートルの峠に経ちました。なんて名前なのか、地図には「プリメラ(第1)」と書いてあるだけなので分かりません。残念ながらガスに包まれ展望もきかず、近くのごつごつした岩と名も知らない花以外は何も見えませんでした。岩ががらがらとした道を一気に下ると、左手の斜面から大きな滝が落ちています。そんな大滝を見ながら昼食にしました。我々の食料は、朝昼晩とおじやかラーメンなのですごく腹が減ります。
 第2の峠に向かう途中、右手の見晴らしの良い大地の上に遺跡がありました。石垣を馬蹄形に積んで囲ってあります。インカの伝令の休憩所か見張り所だったのでしょう。上ってきた道を振り返ると、黒い人影がすごい速さで上ってきます。見る見る姿がはっきりしてきました。なんとポンチョをかぶった現地の人がどこへ行くのか急いでいる様子です。ここでちょっと負けん気がめらめらと燃え上がってしまったので、しばらく彼らの後についていきました。山岳会でかなり鍛えていて体力には自信があったのですが、この高さではものすごくしんどく100メートルぐらいでギブアップしてしまいました。肺が破裂しそうな呼吸をしながら彼らに尋ねました。「ハアハア、シン、ドク、ハア、ナイカイ。」すると彼は、「ポコ(少し)」とだけ答え、こう付け加えました。「ポコ、パン」「パンが欲しいと言ってるんや。」堀田君が追いついてきて通訳してくれました。パンを少しわけてやると「チャウ」と言ってまたものすごいスピードで歩いていきました。
 彼らは1日でマチュピチュまで歩くらしい。食料も何も持っていません。驚くべきスタミナです。
 第2の峠からは石畳の道が現れてきました。大峰山の奥駆の道のようでもあります。ところがこの石畳が楽なようで実は楽ではありません。一歩一歩足にこたえるのです。標高はずっと3500メートルくらいですが、わずかにアップダウンがあります。これが実にしんどいのです。途中、自然にできたと思われる岩のトンネルを通り抜けてしばらく行くと、再び遺跡が現れました。やはり見晴らしのいいところにあり、眼下にはウルバンバ川の濁流が谷の間に見えます。対岸には6000メートルの峰が続き、はるかアマゾンの方へと高度を落としています。胸のすくような光景でした。もう日も傾いているので、今日はこの遺跡の中にテントを張ることにしました。夕暮れ前に小高いピークに上ると、今まで隠れて見えなかったビルカバンバの山々が毅然としてそびえていました。中でもひときわ大きいのサルカンタイでした。
 3日目は、もうマチュピチュに向かって下るばかりです。左手がビルカバンバの山々、正面がマチュピチュへ続く尾根、右手はウルバンバ川、そしてベロニカ。さっさと歩くのが惜しい気がしました。どんどん行くと工事の飯場がありました。我々の食料は、メルカードであまりたくさん買えなかったのでもう底をついています。頼み込んでビールと目玉焼きをわけてもらいました。道はウルバンバ川の左岸の断崖の上に続いています。何となく黒部川の水平歩道を思わせました。最後に30段ばかりの石段を上ると、ぱっと眼前にマチュピチュが姿を現しました。やった、ついにたどり着きました。「空中に失われた都市」とか「謎の空中都市」と呼ばれるマチュピチュです。でも我々インカトレールを歩いてきた者にとっては、やっと高所から下りてきた感じがして、「谷底の都市」というようにも感じられました。 

 インカが作った断崖に掛かる道と橋   毒蛇ブッシュマスターを捕まえた

 マチュピチュ観光
 ホテル・マチュピチュは遺跡の入り口にありますがちょっと値段が高いので、線路を歩いて隣のアグアスカリエンテス(熱い水)という駅のホームの裏側にあるペンションに入りました。近くにレスタウランテ・アイコと言うのもあります。メニューの中にお好み焼きのような「トルティーヤ・デ・ベルドゥーラ(野菜のトルティージャ)」というのがあって、どうも祖父が日本人だったという人がやっていました。そんなことで何となく親近感を覚えて気に入ってしまいました。ところでアグアスカリエンテスというのは温泉のことです。さっそく夕方、何人かの日本人と水着を持って入りに行きました。ヨーロッパからの観光客も来ています。42度くらいか、かなり熱い湯です。でも慣れれば首まで浸かって泳いだりもできました。ところが、ヨーロッパ系の人たちは、見ているとひざから下を湯につけて、ぶらぶらしているだけです。どうも彼らにはこの湯は熱すぎるようです。やっぱり風呂は日本人だ。なんて変な自慢をしながら久しぶりの湯に満足でした。なんせ、僕の泊まっている安ホテルはたいがい水シャワーで、時々コインを入れるとぬるい湯が出るような所ばかりでしたから。ヨーロッパ系の人は冷たい水でも平気ですから、子どもの頃からの習慣はおそろしい。
 翌日はマチュピチュ観光です。一応国立公園のようになっていて、入り口で入場料を取られます。学生証があればものすごく安くなるそうなのですがありません。しゃくなので、入り口の手前から急斜面を上ってブッシュをかき分けゲートをパスしました。ペルーの天野博物館でもらったパンフを見ながらインカの橋(プエンテデインカ)の方へ歩いていきました。断崖に崖下から石を積み上げて道にしてあります。敵が攻めてくると架けてある木を谷に落として敵の侵入を防いだそうです。「へぇー。」とか「すごいな。」とか感想を漏らしつつ帰り始めると、道ばたに蛇がとぐろを巻いて鎌首をもたげています。私は田舎育ちですから、一目見て「マムシ」に似た毒蛇とわかり、すぐに立木の枝を折って頭を叩きつぶしました。日本では高く売れるので、ひょっとしてペルーでもと思い、だれか買ってくれる人を捜しました。ところが、だれもこの蛇を見るや気持ち悪がって相手にしてくれません。実際アマゾンなどでは不吉な物として長い間信じられていたそうです。仕方がないのでゲートの係りのペルー人にあげました。しきりに「かまれたのか」とたずねてきます。「ムイ ピカ(とてもきつい)」と言っていました。後で名前を聞くとブッシュマスターとのことです。何でも中南米で一番猛毒の蛇とか・・・。知らぬが仏でした。
 一通り歩き回った後、正面に屹立しているワイナピチュへ向かいました。かなりの急傾斜ですが、私も堀田君も足には自信があります。約20分で頂上に到着しました。日差しがきつく暑いので、上半身裸で丁度でした。

 グッバイ少年
 僕が南米への夢を膨らませていたとき、毎日出勤時刻にテレビで「キャラバン2」という特集をやっていました。うらやましく思って見ていたのですが、そのレポーターがマチュピチュへ行ったとき、「グッバイ少年」というのがいて、マチュピチュから鉄道の駅までグニャグニャと下るバスの車窓に「グッバーイ」と叫びながら何度も現れ、レポーターの感激を誘っていました。つづら折りになった道にまっすぐに歩いて通れる近道があり、少年はバスが行くたびにその近道を通って次のカーブで待っているというのでした。
 マチュピチュから駅まで下るとき、僕と堀田君もこの道をたどることにしました。バス代を浮かそうという魂胆です。バスが出発してすぐに、まっすぐに降りるこの道に入り、タタタタタッと走るように下りバス道に出て待っていました。案の定、バスがやってきます。そのバスを見送った後またまっすぐに下ります。例のグッバイ少年もいます。僕らは別にお金をねらっているわけではないので、バスが来るよりも先に下へ降りようとしました。すると、グッバイ少年が「どうしてそんなに早く降りるんだ」と不思議がっていた、と堀田君が教えてくれました。僕らはバスよりどれだけ早く降りられるか試したかったのです。腕時計はすでにメキシコでおみやげと交換してありません。それでどれくらい早かったか詳しくは分からないのですが、ずいぶん待ってバスが到着しました。
 
 アグアス・カリエンテス
 アグアス・カリエンテス(熱い水)。何のことはない温泉です。この温泉が、マチュピチュから1駅クスコの方に戻ったところにあります。駅名もアグアス・カリエンテスで、安いホテルもあります。線路の上をとことこ歩いてアグアス・カリエンテスで安いホテルに入りました。